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「私達と共に歩まれる主

 2024年4月14日 復活節後第2主日

聖書箇所:ルカによる福音書  24章13節~35節

      日本キリスト教会教師  富樫史朗

 

 今日は「私達と共に歩まれる主」と題してお話しします。皆さんはFootprint(足跡)という英語の詩をご存じでしょうか。ある人が天国に行った時に、神からあなたの人生だと言って、砂浜についた二人分の足跡を示されました。私があなたと共に歩んだ証拠だと神はおっしゃいました。しかしあるところでは一人分の足跡しかありません。その人は神に異議を申し立てました。それは苦しいときにあなたはいてくださらなかった証拠ではありませんかということでした。けれども、足跡が一人分しかないのは私があなたを背負って歩んだからだとおっしゃいました。神は信じる者と共にいてくださるということです。

 さて、冒頭の「この日」というのは、主が十字架上で死なれて三日目の日曜日のことです。その日の朝、金曜日の午後に議員アリマタヤのヨセフが主の御遺体を納めた女性の弟子たちが墓に行ってみると、墓の蓋をしていたはずの大きな石が脇に転がしてあり、中に入ってみると主イエスのからだが見あたらなかったとその直前の箇所に報告されています。そのために途方に暮れていると、天使達が現れて主が復活されたと告げたとも彼女らは報告しました。しかし、復活された主にお目にかかったという報告はまだなされていませんでした。それでは復活された主はいったいどこに行かれたのでしょうか。その同じ日、二人の弟子がエルサレムから西へ60スタディオン、1スタディオンは聖書巻末の度量衡換算表によれば185mですから、11キロメートルということになりますが、都からそう遠くないエマオという村へ行きながら、この一切の出来事について語り合っていました。18節によれば、その内の一人はクレオパと言いました。ヨハネによる福音書第19章26節にあります「クロパとその妻」がこの二人の正体ではないかと言われています。この二人は十二弟子には入れられていませんが、主イエスのそばにいた近しい弟子たちであったと思われます。

 4世紀の教会歴史家でもあった司教エウゼビウスによると、彼らは主の父ヨセフの兄弟と妻、つまり主イエスの叔父とその連れ合いである叔母であったと言われています。別の言い伝えでは、クレオパの妻が母マリアの姉妹で、クレオパはその夫と言われています。いずれにせよ、彼らは主イエスにたいへん近い弟子夫婦だったのです。

 彼らはイエスが十字架上で死に、遺体もどこへ移されたか分からないので、希望を失い、郊外の家に帰るところでした。道々語り合い、論じ合っていると、主イエスご自身が近づいて来て、彼らと一緒に歩いて行かれました。しかし、彼らの目が遮られて主と認めることができませんでした。神がそのようになさったのでした。主イエスは彼らに言われました。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」。彼らは悲しそうな顔をして立ち止まりました。その一人のクレオパと言う者が、答えて言いました。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」。「どんなことですか」と主が言われると、彼らは言いました。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため総督ピラトに引き渡し、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちが、わたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓に行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのでしたが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした」。クレオパも主イエスを民族的な救いをもたらすメシアだと考えていました。そこで、主イエスは言われました。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。ここで「聖書」と言われているのは「旧約聖書」のことです。それではメシアの死と復活はどこに書かれているのでしょうか。旧約聖書は大部な書物ですが、イザヤ書第52~53章の「苦難の僕」以外には見当たらないと思われます。全人類の罪の贖いのために命を取られた人です。誰のことか他には当てはまる人が分からない謎の人です。しかし、復活は私にはエゼキエル書第37章の「枯れた骨の谷」以外には思い当たりません。

 一行は目指す村に近づいたが、主イエスはなおも先へ行こうとされる様子でした。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めました。主イエスは、彼らと共に泊まるために、家に入られました。一緒に食事の席に着いたとき、主イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。これは言うまでもなく最後の晩餐で主が始められた教会の聖晩餐の作法です。すると、二人の目が開け、主イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、せっかく家に帰り着いたのに、時を移さず出発してエルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていました。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときに主イエスだと分かった次第を話しました。こういうことを話していると、主イエス御自身が彼らの真ん中にお立ちになり、「あなたたちに平和があるように」と言われました。彼らは恐れおののいて、亡霊を見ているのだと思いました。そこで、イエスが言われました。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはそれがある」。こう言って、主は釘跡のある手と足とをお見せになりました。彼らが喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、主が「ここに何か食ベ物があるか」と言われました。彼らが焼いた魚を一切差し出すと、主イエスはそれを取って、彼らの前でお食べになりました。

 それから彼らに対して言われました。「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉はこうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。そこで主イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、言われました。「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらの事の証人である。見よ、わたしの父が約束されたもの、聖霊をあなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都に留まっていなさい」。そして、ペンテコステの日、ユダヤ人たちが律法授与記念日として祝う日に弟子たちは皆、聖霊を受けることができました。

 

 さて、これらの記事からわたしたちは何を聞き取れば良いのでしょうか。まず、主イエスは体を持って復活されたということです。そして、自らわたしたちに近づいてくださるということです。しかし主がわたしたちの目を開いてくださらなければ、わたしたちにはそれが主だと分からないのです。それでも主は、イザヤ書第7章14節にインマヌエルの神と預言されているとおり、わたしたちと共にいてくださり、わたしたちを守り導いてくださると共にわたしたちに聖書に書かれているご自身のことを分からせてくださいます。そして、わたしたちを証人として世界に送り出されるのです。その時も復活の主は私達を送り出す側ではなくて、聖霊の形を取って常に私達と共に歩んでくださるのです。私達は今週も神に感謝し、神のお喜びになる道を選んで歩きましょう。