メッセージ


 

ローマの信徒への手紙 8:26〜27

2019年7月14日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマの信徒への手紙 8:26〜27(新共同訳)


 ここでは、霊と祈りについて語られます。ここで言われる「霊」は、神の霊、聖霊のことです。この箇所でも語られているように、聖霊の働きと祈りには深いつながりがあります。

 聖書が告げる救いは、罪からの救いです。それは、父・子・聖霊なる神との交わりに入れられることによって与えられます。救いとは、神と共に生きることです。
 神は、罪の世にあってわたしたちが神と共に生きられるように手立てを講じてくださいました。神は、ご自身の民を召し出し、礼拝する群れを造り出されました。
 「礼拝」という言葉は、創世記 22章に初めて出てきます。けれど、礼拝という言葉になる前に、礼拝を表す言葉が出てきます。創世記 4:26には「主の御名を呼び始めた」とあります。この主の名を呼ぶというのが、礼拝のことだと言われます。つまり、礼拝の本質には主の名を呼ぶということがあるのです。ですから、主の名を呼ぶこと、祈ることが、わたしたちの信仰生活の基本に存在しています。

 一人ひとりが聖書を持てるようになったのは、活版印刷がなされるようになったここ500年ぐらいの話です。礼拝から礼拝に至る神の民の日常生活を支えてきたのは、祈りです。アブラハムは聖書を持っていませんでした。十戒も知りません。彼の信仰生活を支えたのは、神を礼拝し、主の名を呼ぶことでした。

 神が語りかけてくださり、わたしたちが応答する。ここに神との交わりが生じます。
 神はわたしたちを呼ばれます。神は、アダムとエバが罪を犯し、神から隠れようとしたとき、アダムを呼ばれました。「どこにいるのか。」(創世記 3:9)神が呼びかけてくださるので、罪人は神へと立ち帰り、御前に進み出ることができるのです。だからわたしたちの礼拝は、神の招きの言葉で始まります。そして、神に呼ばれ、招かれたわたしたちは、主に呼ばれたサムエルと同じように「主よ、お話しください。僕は聞いております」(サムエル上 3:9)と御前に進み出るのです。神が語りかけてくださり、人が神に応答する。ここから神と共に生きることが始まります。

 神は共に生きることを願って、ご自身にかたどってわたしたちを造り、神の務めを担うようにされました。神と共に生きるということは、神との交わりに生きるということです。名前を呼んでも返事がない。話しかけても聞いていない。これでは共に生きることが形作られていきません。神は今、御言葉を通して語りかけておられます。御言葉を通して神の導きに気づかされます。そしてわたしたちは、神に祈りをもって応え、讃美によって応え、主の御業に仕えることによって応えていきます。こうして、神と共に生きる生活が形作られていきます。わたしたちの信仰生活は主に応えること、祈りから内実が満たされていきます。
 聖書には民の祈りである詩編が収められています。人の祈りの言葉を、神はご自身の言葉として聖書に収め、詩編から祈りを学べるようにしてくださいました。神はわたしたちの祈りを求めておられます。だからイエスは神の民、教会についてこう言われます。「私の家は、祈りの家と呼ばれる。」(マタイ 21:13 聖書協会共同訳、イザヤ 56:7)

 人は神に造られたので、信仰のあるなしに関わらず、祈りは人にとって本質的なものです。例えば、大切な人が事故や病気で命が危ぶまれるとき、「助かりますように」と祈らない人がいるでしょうか。大切な人のためにその無事を、その幸せを願う。その願いが祈りとなっていきます。自分は何もすることができない。それでもその人の幸いを願う。人が生きていくためには、神の助けと導きが必要なことを人は本質的に知っているのです。

 しかしそれでも人は罪を抱えているので、祈れなくなります。
 一つには、受けとめきれない悲しい出来事、困難に出会ったときです。とても神に感謝なんてできない。神を喜ぶことなんてできない。「神さま、どうしてですか」と言って絶句してしまう。そういうことが人生では起こってきます。
 そんなとき、信仰の友が祈れない自分のために祈ってくれることもあるでしょう。たとえそういう人がいないときであっても、聖霊なる神がわたしたちと共にいてくださり「弱いわたしたちを助けてくださいます。」
 わたしたちが涙を流し慟哭するとき、歯ぎしりし「どうしてなんだ」と叫び続けるとき、希望を失い何も考えられないとき、聖霊なる神自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるのです。イエス キリストがわたしたちの罪を負って苦しんでくださったように、聖霊も祈れないわたしたちの苦しみを担ってうめかれるのです。

 神はわたしたちを知っていてくださいます。人の心を見抜くお方です。そして、聖霊なる神の思いも知っておられます。聖霊なる神は、ひとり子を遣わしてでもわたしたちを救うという神の御心に従って、わたしたちをキリストに結び合わせ、聖なる者、聖徒としてくださいました。そして、わたしたちの救いのために執り成し続けていてくださいます。
 ですから、祈れないとき「神さま」と言って、言葉が見つからない、出てこないときには、そのまま「キリストの御名によって祈ります アーメン」でよいのです。祈るべき言葉が出てこない、見つからないときには、聖霊自らが言葉に表せないうめきをもって執り成していてくださいます。祈れないときでさえ、聖霊が執り成し祈っていてくださるのです。

 わたしたちは自分の力で祈るのではないのです。信仰生活の基本にある祈りだからこそ、神の助けと導きが必要なのです。
 さらに、信仰の先輩と一緒に祈る中で、何についてどう祈るのか、どんな言葉を使うのかをまねをしながら祈ることを身に着けていきます。わたしは共に祈ることが信仰の継承には欠かせないと考えます。

 また、祈りは神と向かい合うことですから、神以外のものに思いが行ってしまい神と向かい合うことができなくなると祈れなくなります。ですから、祈りで最も大切なのは、言葉を整えることではなく、神へと思いを向けることです。

 わたしの大学時代の友人は「自分は神さまの御心にかなう祈りが分からないから、主の祈りしか祈らない」と言っていました。わたしたちの祈りには神の御心にそぐわないことがあることはよく分かっています。だからこそ「キリストの御名によって祈る」のです。わたしたちの救いの御業を成し遂げ、今も神の右にあって執り成していてくださるキリストに自分の願いを委ねて祈るのです。わたしたちの祈りは、聖霊にもキリストにも執り成されて祈れるのです。

 そして祈らないでいると、祈れなくなります。ケガなどをして何ヶ月も動かさないでいると、動かせなくなります。同様に、祈らないと祈れなくなります。牧師でも祈れなくなります。中会や大会の委員会の書記をして、記録をまとめたり委員会の準備をする連絡するなど事務に追われ、落ち着いて祈れないことが続くと「自分は何を祈っていたんだろう」と祈っていたことを忘れてしまい、祈りが出てこないことがあります。
 神と向かい合うことも、祈りの時間を保つことも、聖霊の助けが必要です。「慌ただしくて祈れません。心落ち着かなくて祈れません。祈る気になれません」わたしはそんな祈り、つぶやきをしょっちゅうしています。

 わたしたちの日本キリスト教会は、学びを大切にする教会です。学びが好きと言ってもいいかもしれません。ですが少々学びに偏りすぎているように思います。神の御心を学ぶ・聞くだけでなく、祈り・讃美という神への応答・神への語りかけを信仰生活の中に取り入れていく必要があるように思います。

 聖霊が弱いわたしたちを助けてくださいます。どう祈るべきかを知らないわたしたちのために、聖霊自ら執り成してくださいます。わたしたちの祈りも神の恵みの中に入れられています。わたしたちは信仰が立派に成長し、素晴らしい祈りができるようになってから祈るのではありません。神はわたしたちを知っておられます。人の心を見抜くお方です。その神が今、わたしたちを求め、わたしたちの祈りを求めておられます。わたしたちの罪も、欠けも弱さもすべて知っておられる方が、今わたしたちを求めておられます。共に生きることを求めておられます。だからわたしたちはこの神に向かって「神さま」と祈っていくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 どうか聖霊をお注ぎください。あなたがわたしたちを求めておられることを知ることができますように。あなたの救いの恵みの中で「アッバ 父よ」と祈っていくことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン