メッセージ


2018年1月28日(日) 礼拝説教

「思いをひとつにして」

フィリピの信徒への手紙2章1~11節

                               

 

 

 6節以下の「キリスト讃歌」と呼ばれる部分は、初代協会の讃美歌であり、信仰告白でした。この讃美に先立って、1節以下に、フィイリピの教会に対するすすめが記されています。「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」、その前には、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」とあります。「利己心」とは「自分のことだけ」しか考えない、自分の利益だけを求めて、人はどうなってもよいという思いです。聖書は、そこに「虚栄心」をつけ加えています。自分の虚しい栄光ばかりを追い求めて、人を顧みない、尊重しない、ということです。この手紙は「喜びの手紙」と呼ばれるほどに「主にあって喜ぶ」と繰り返されます。ならば、フィリピの教会は、さぞや柔和で互いに喜び合っていたのかと思うのですが、さまざまな問題を抱えていたとも考えられます。キリスト者が集まれば自然にも理想的な群れが生まれるわけではないのでしょう。

 実際、4章にはエポディアとシンティケというふたりの女性の名が挙げられ、「主において同じ思いを抱きなさい」と奨めます。このふたりのいささかいが、群れ全体を巻き込むものへと発展してしまっていたことが、想像されます。そうした中で、「他人のことにも注意を払いなさい」というと、他人の目を気にしたり、いつも自分を他人と見比べてしまうということになりかねません。そこで、パウロは、「それはキリスト・イエスにもみられるものです」ということばをもって、この奨めを「キリスト讃歌」と結びつけます。「自分のことだけでなく、他人のことに注意を払う」ことは、キリストにも見られる、キリストこそそのように生きてくださったお方であるということです。それは、十字架の死に至るまでの徹底した従順であり、わたしたちのためのへりくだりでした。利己心や虚栄心から互いに傷つけ合って生きるわたしたち自身が受けなければならない苦しみを、主が受けてくだささったものです。そのへりくだりのキリストを、神さまは高く引き上げてくださいました。

 わたしたちは、このキリストを見上げて歩むよう招かれています。キリストは、わたしたちのために苦しんでくださいました。このキリストの御名を讃えることにおいて、わたしたちは、ひとつにされます。キリストの名において歩む群れは、繰り返しキリストによって罪赦された者であることを憶えるとともに、「イエス・キリストは主である」という言葉において、このはかりしれない恵みを公に宣べる群れでもあります。